みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

エスプレッソ、ひだまり、ゴーレム。

いつでも、消して、また新しく始めるというのを繰り返してきた。わたしたちの世代の特徴かもしれない。リセット・リスタート。リセット・リスタート。そうすれば、自分の望むもの、綺麗なものが手に入ると思っていたから。

綺麗に黒板を消して、またゼロから始めればいい。それもまた美しい。

しかし、わたしは自分の書く文章に対してコンシャスすぎる。

とてもじゃないけれど、ナタリーのいうような「第一の思考」をそのまま表現することができそうにない。その生々しい手ざわり。もし、わたしが自分だけのノートを広げたら、何かそういうものが書けるのかなぁ。

いいものを書こうと思う必要すらないんだった。ただ、わたしは文章を書いているのが好きだった。それは、生きるのが好きであるのとほぼ同義だ。そんな自分を尊重してあげればいいということなんだ。

このトピックにとどまり続ける必要もない。しかし全てに対してわたしは言い訳がましい。ブログというものにこだわり・わだかまりがあるんだ。理路整然と書かなければいけないんだという。つまりこれこそ、ナタリーのいう「エゴ」に他ならない。

検閲されているのだ……常に、すでに。

今回、また文章練習に戻ろうと思ったのは、図書館でたくさんの本を借りてきて、それを手書きで写したら楽しいだろうと思ったんだけど、ノートがあっという間に終わってしまいそうだから、パソコンでやったらどうかなと思ったんだった。

そしたら、タイピングになれることにもなる。いつか小説を書くなら、きっとタイピングで書くに違いないと思ったから。

別にナタリーの言う通りの方法でやる必要だってないんだった。どこにも、絶対的なルールなんてないんだから。

だから、好きな作家の好きな箇所を書いて、そこから繋がるような感じで、自分のことをつらつら好きなように書いてもいいんだった。それがわたしのしたいことであったような気がする。うん。。。。

昔は、パソコンでものを書くのが好きだった。でもそれもいつの間にか、やらなくなった。仕事や勉強でパソコンを使って、目が疲れるからできるだけ紙のノートに書くようにしたのが理由の一つ。もう一つは、わたしの絵と組み合わせたかったから。それから、何よりの理由は、ノートを何十冊も書いて、結局作家になれなかったから、もう書くこと自体が嫌になってしまったんだ。わたしの手書きの文字はなかなか味がある。だから、手書きで書くと、パソコンで書くよりずっと微妙なニュアンスを表現できるような気がした。紙のノートは、わたしのため。パソコンのノートも、わたしのため。誰にも読まれることのないあの大量の文字は、どこへ漂うのだろう。川から海に押し出された泥のように、わたしの中に、深く深く、堆積しているのかな。

絵も、文章を書くのも、本を読むのも好きだ。そういえば、今日はいつもよりすてきな1日だった。いつものように昼過ぎに起きて、でもその後が違った。すぐさま着替えるとカフェにエスプレッソを飲みに出かけて、滅多に浴びることのない日光の下をゆっくり歩いた。太陽とすっかり仲良くなった気分で、家に着いたら窓のカーテンを開けた。カーテンも、人の目が気になって滅多に開かない。今日は、窓際に座って、午後の残り日にうずくまって、本を読んでいた。なつかしかった。小学生の頃、夕陽の当たる階段に座って、本を読むのが好きだった。

その時だった。図書館に行こうというひらめきが、天使のように訪れたのは。図書館では、大好きだった作家と、これから好きになれそうな作家の本を借りた。ブローティガンの本が、まさか棚に置かれているなんて。ブラッドベリもたくさんあった。ヴァージニア・ウルフ。これを全部借りて行って、自分のノートに好きな箇所を書き写したら、絶対、自分の創作意欲が刺激されるに違いない!ってワクワクしたんだった。図書館は、なんて幸せな場所なんだろう。本屋では決して見つからない本が、楽しそうに肩を並べている。楽しそう?昔はそんな風に思わなかった。誰からも手に取ってもらえないのね・・・なんて同情したりして。わたしの選ぶ本は、通好みだなんて思っていた。だからどうってこともないんだけど。

わたしの読んできた大量の本も、わたしの中に、泥のように堆積しているのかな。その泥をこねこねして、ゴーレムにして動かしたいというのが、わたしの長年の夢だった。わたしの言うことを聞く家来。わたしを肩に乗せてくれる巨人。「歩き出せ、ゴーレム」という題名の詩を書こうとしたこともある。わたしはまだあきらめていない。やっぱり、こうして、書くことが好き。それが、誰に読まれなくても、認められなくても、やっぱり、こうして、書くことが好き。

こうして、ワクワクしながら、自分の言葉に耳を傾けているの。