みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

文章練習の極意

 わたしは気づいたんだけど、文章練習には二つの目的がある。
 一つは、文章を書くことは楽しいってことを感じる。
 もう一つは、何をどう書いてもいいんだってことを思い出す。
 だから、文章練習は大事なのだ。
 わたしは文章を書いているとき、楽しい。特に、ストーリーなんかなくて、ただ考えをつらつら書いてるようなときがいちばん楽しい。今みたいなとき。考えが過去のどこか旅した町の風景やなんかにグーッと寄っていって、その色彩を味わっているようなときが楽しい。それをどうやったら、白い紙の上に、言葉だけで滲み出させることができるだろうか。ポルトガルの路地で売られていた揚げ菓子の匂いを、どうやって染み出すのだろうか。イタリアの夕陽が海に落ちてしまって、岸辺に集まった人たちがぞろぞろと帰っていく姿を、どうやって描き出すのだろうか。そういうことを考えているときわたしは想像力の旅人となって書くことからも自由になっている。
 わたしは遠くに行きたい。自分の心の中を遠くまで旅したい。
 それと、作家になることとは、じつはあまり相性がよくないのかもしれない。ストーリーやオチがきちんとある文章は、わたしには書きたいと思えない。たぶん、わたしの書くものは商品としての小説にはならないだろう。
 今日、愕然とした。わたしは、もう会社員としての仕事を辞めて、作家としてやっていきたい、なんて、かねがね思っていたけれど、そもそも、会社員を辞められるほどに作家であるわけではない。会社員を辞めたら、ただの無職とか、主婦とかになるだけであって、作家になれるかどうかは、またゼロからやり直さなければならないのだ。
 作家というのはまた一つの職業であって、叩き上げで修行を積まなければいけないのだ。
 うんざりした。そうだとしたら、この世界には魔法なんてないし、面白くも何ともない。
 最初に掲げた、文章練習の意義と反対するじゃないか。わたしは書くことは楽しいということに忠実でありたいし、何をこう書かなければいけないと口出しする人たちとは友達になりたくない。それが、わたしが職業作家に決してなれないということを意味しているのだとしたら、とても残念である。
 今日、かねてから書きたいと思っていた小説の出だしを書いてみた。困ったことに、その話にはストーリーがない。わたしには説明したいことや、考えたいことはあるんだけれど、それが時間の流れに乗ってプロットを通じて展開していくということになっていない。これは小説としては致命的である。
 しかし、文章としては、生きている。
 それは不思議な感覚だ。こうして書いている文章は、登場人物はおらず、ストーリーもなく、小説としては、致命的である。しかし、生きている。生きもののように、這っていく。自分の書く文章は、いつも、腕を使って砂浜を這っていく人魚を連想させる。人魚には、足がない。