みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

目が痛いことについて

 朝、目が痛くてなみだが出るのは、典型的なドライアイの症状であるらしい。
 わたしはずっとそうした症状に悩まされてきた。だから、ドライアイの症状が引くまで寝続けることにした。時間に余裕が出てきた最近の話である。そうすると、12時間くらいは寝ていないと、目の疲れが取れない。ジンジンする。夜、楽しくなって、遅くまで文章を書いていると、そういうことになる。
 朝、何かを書いたり、勉強をしたり、やろうと思っても、目が痛いので、ままならない。夜、あまりに集中して、まぶたを閉じるのを忘れながら書いているのかもしれない。寝入りぎわには目の痛みはない、むしろ快適。なんとなく、アドレナリンが出ているから、痛みを忘れているのだろうか。
 冬の朝は、よく、肉まんを食べる。今朝は、寝起きの水の一杯すら飲まずに、コーヒーも入れずに、肉まんを食べてしまった。オーブンレンジの蒸し器モードで回っている8分の間、水を飲むことをしなかった。布団から起きたら、寝ている間の睡眠不足を補って、水分を取るのがいいと言われている。わたしはこういう、健康によいとされていることがあまり好きではない。結局、ああしたほうがいい、こうしたほうがいい、ということでがんじがらめになってしまい、まるでプログラミングされた生活になってしまうからだ。会社員だった頃は、そうやって自動人形のように体が動くのがありがたかった、考えないでも家を出られるから。しかし今となっては、単に体にいいらしいという伝聞の強制力で、水を飲まなければと脅迫心を感じてしまう自分を哀れに思う。
 水は飲まなかったけれど、目薬はさした。これは、目が痛いといって眼医者に行ったら処方されたドライアイの目薬である。1日4回。もう寝るころだからとさしても、そのあと、どんどん寝るのが遅くなるので、結局、1日7回か8回はさしている。それでもいっこうに、朝の目の痛みは改善されない。ここに、「ああしたほうがいい」の限界が見られる。
 肉まんを1つ平らげて、水を飲んでみることにした。冷たい。冬はこれだから水を飲むのが億劫になる。体温がいっきょに下がったのがわかる。お湯を飲まないといけない。ほら、またこうして、ああしろこうしろと・・・
 もしかしたらわたしは神経質なのかもしれない。ここに書かれた文章を読み返すと、まるでおばあさんが不平を言っているようだ。もし本当にわたしがおばあさんなら、こんなふうに不満を抱いたりする元気があるのか、わからないけれど。
 今日やることを考えて、うんざりした。うんざりすることに時間を使いたくない。わたしはいつも、朝は悲観的で疲れているのだが、夜はポジティブで何をやっても楽しい。それで、日中は、よく死にたいと思っている。面倒くさがりだから、面倒なことがたくさん出てくると、面倒くさくなって、死にたくなる。と言っているけど、死なない。面倒くさい、というかわりに、死にたいと言っているだけだ。死ぬというのは、わたしにとって、「もう何もしなくていい」を意味する。だから、面倒くさくて何もしたくないとき、それは日中はずっとそうなんだけど、気楽に死にたいと言ってしまうのだ。それにしても、やりたくないと思うのは、当たり前だけど、やらなければならないことに決まっている。やれやれ。
 すぐに脅迫心を感じてしまう自分が疲れやすいのは、当たり前のようだ。しかし脅迫心がなかったら、素直なやりたいという気持ちだけで、1日を過ごすことができるのだろうか。脅迫心であるのか、親切心であるのか、わたしの理性はいろいろとメッセージを出して、ああしろこうしろとわたしをコントロールしようとする。コントロールされたくないわたしはいつまでも布団の中から出てこない。
 いつも、もう寝るぞという時間になって、自由を感じる。ああ、ようやくわたしの1日が始まるという感じ。それは、「やらなければならないこと」から解放された時間なのだ。夜はなぜ自由でいられるのだろう?
 ああ、夜は、死者の世界だからだ。もう外界とつながりをもたなくていい。面倒なことは全て日中に終わってしまった。あとは純粋な時間を楽しむことができる。そんな贅沢を味わうことができるのは、深夜0時から長くても3時間ほど。
 本当の死人だったら、日中からいきなり、死者の世界を生きているのだから、朝から楽しい気持ちで過ごすのかもしれない。わたしは死人になりたい、と言ったテーバイの巫女の気持ちがわかる。