みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

新しい習慣

 どうかしてるって思うかもしれないけど、夜中に思いついたことがあったら、迷わず電気をつけて、考えたことを書き留めることにしたの。今まで、そんなふうに小説の切れ端のようなものがひらめいても、とても夜も遅いし、家族を起こしたらいけないし、いつだって翌日の予定の方が大事だから、そのまま眠ることにしていた。それに、夜中に書いたものってたいていろくなものではない。翌日読み返して、ああ、昨日はなんであんなにハイになってたんだろう?と思うのがオチだった。だから、わたしはずっと夜が好きで、朝が嫌いだった。太陽が嫌いだった。太陽の下で見ると、どんなに素晴らしく思えた言葉も、すっかり色あせてしまったから。ときには恥ずかしくなった。夜中のわたしは見る目がないのだと思った。だから、夜中のわたしを信用したらいけない。夜中のわたしを起こしたらいけない。夜中のわたしに言葉を書かせたらいけない。そんなことをしたって、なんの役にも立たないんだから。ずっとそう思っていた。
 わたしは本当は夜が好きなんだ。それは、わたしが夜にでてくる自分の言葉が好きだからなのか、単に夜型だったからなのかはわからない。それでも、夜にでてくる言葉を追いかけていくと、必ず夜更かしをしてしまう。そして、いつも翌朝には後悔が待っていた。
 朝、書けばいいと思う。でも、夜のように、心の中のささやきのようなものを朝、聞き取るのはむずかしい。わたしは朝、いつも、どんなことを考えているんだろう。何も考えていないというのは嘘だ。コーヒーのこととか、フルーツやパンのこと。小さな頃から、朝はお腹がすいていて、恐ろしく眠たいものだった。とてもじゃないけど、ノートを広げてリズミカルに書き留めていくための時間じゃない。結局、夜更かしをしなくなったわたしは、書くことからも遠ざかった。書かなくなった夜のわたしは、眠れない眠れないと寝返りを打ちながら、頭の中に流れていくモノローグを、こんなものに価値はないと言いながら無視していた。いま、こうして夜中に起き出して書きながら、それがどれほど残酷な仕打ちだったのかを感じる。わたしの手が、ひと粒、ひと粒、真珠をつらねていくように、これほど言葉がいとしい。
 けれども、学校にいくこと、仕事をすること、健康であることは、わたしの生活において必要だった。わたしは、夜に眠り、朝起きることを選んだ。さもなくば、心を病んでいたにちがいないと思う。だから、わたしの選択は正しかったーーある面においては。生きのびるということについては。
 それでもずっと、わたしは「いつ書くの?」というわたしの声を何度も聞いた。そのたびに、今ではない、明日、その先、未来に、と言い続けた。先送りしていることはわかっていたし、このままでは死ねないとも思っていた。なぜ死ねないのだろう?それは、わたしが留保しているものの中に、わたしの人生の鍵があると感じていたからだ。人生の鍵とは、この世に生まれ落ちたとき、すでに胸に抱いていたと信じられるもの。誰かのためでもなく、成功に結びつくわけでもない。ただのこだわりなのかもしれない。わたしは、書くことや考えることに強い執着を持っていたのに、それをまっすぐに追求することができなかった。ただのこだわりだと言って片付けようとした。そのために生まれてきたのに、生きることのじゃまになる。それでいて、そのまま墓場まで持っていくことはできない。一日の終わりに部屋の明かりを消すと、胸の上に置かれた鍵が静かに歌い出す。それがこのモノローグなのだ。
 今日は、起き出してきて、眠気が吹き飛ぶことを承知で書き始めた。すぐそばで寝ている家族の吐息すら聞こえない。耳鳴りのような、虫の音のような、美しい金属のような音が、部屋の中に充満している。わたしはこの音をよく知っている。夜中に詩を書いていると、この音が聞こえて、金色の滝が自分のそばを流れているのだと思った。それでも、車の音は聞こえる。そう、布団の中で、夜の静けさを過ぎていく車の音を聞いたとき、ふと、霧雨がけぶる夜の中、アパートとアパートを結ぶ電線に吊るされたオレンジ色の街灯が、白っぽい壁を通りの向こうまで繰り返し照らしている、わたしたちはアパートのひとつに宿を取っていて、通りに滑り込んできた車が遠ざかるのを聞き、アスファルトが雨に濡れているのを感じる、いったいこの経験は、ヨーロッパのどの国でのことだったかしら?と横に寝ている夫に尋ねたいと思ったのだった。そのとき、布団の中で、この夜を文章にすることを思いついた。
 起きるの?と尋ねた。とてもじゃないけど、0時半を過ぎているから明日の保証はできない。それでも、やると決めて、暗い部屋にまた電気を点けた。あの夜を思わせるような、オレンジがかったハロゲンランプ。わたしは書き始めた。今日は布団に入る前、書くことを新しい習慣にしたいと思ったばかりだったのだ。文字数や、出来栄えを気にすることなく、ただ失敗するためにーーあるいは翌朝、苦しむためにーーわたしの言葉を書き留めたっていいじゃないか。いつか書きたいと思っていた壮大な物語にとうてい及ばなくても、消えていく声に形を与えたい。たとえ真夜中であっても、すぐに耳をすませ、手と目を使って書き留められるようにしておきたい。わたしはたくさん書きたい。それがどのようなものであってもかまわない。
 
 
 

目が痛いことについて

 朝、目が痛くてなみだが出るのは、典型的なドライアイの症状であるらしい。
 わたしはずっとそうした症状に悩まされてきた。だから、ドライアイの症状が引くまで寝続けることにした。時間に余裕が出てきた最近の話である。そうすると、12時間くらいは寝ていないと、目の疲れが取れない。ジンジンする。夜、楽しくなって、遅くまで文章を書いていると、そういうことになる。
 朝、何かを書いたり、勉強をしたり、やろうと思っても、目が痛いので、ままならない。夜、あまりに集中して、まぶたを閉じるのを忘れながら書いているのかもしれない。寝入りぎわには目の痛みはない、むしろ快適。なんとなく、アドレナリンが出ているから、痛みを忘れているのだろうか。
 冬の朝は、よく、肉まんを食べる。今朝は、寝起きの水の一杯すら飲まずに、コーヒーも入れずに、肉まんを食べてしまった。オーブンレンジの蒸し器モードで回っている8分の間、水を飲むことをしなかった。布団から起きたら、寝ている間の睡眠不足を補って、水分を取るのがいいと言われている。わたしはこういう、健康によいとされていることがあまり好きではない。結局、ああしたほうがいい、こうしたほうがいい、ということでがんじがらめになってしまい、まるでプログラミングされた生活になってしまうからだ。会社員だった頃は、そうやって自動人形のように体が動くのがありがたかった、考えないでも家を出られるから。しかし今となっては、単に体にいいらしいという伝聞の強制力で、水を飲まなければと脅迫心を感じてしまう自分を哀れに思う。
 水は飲まなかったけれど、目薬はさした。これは、目が痛いといって眼医者に行ったら処方されたドライアイの目薬である。1日4回。もう寝るころだからとさしても、そのあと、どんどん寝るのが遅くなるので、結局、1日7回か8回はさしている。それでもいっこうに、朝の目の痛みは改善されない。ここに、「ああしたほうがいい」の限界が見られる。
 肉まんを1つ平らげて、水を飲んでみることにした。冷たい。冬はこれだから水を飲むのが億劫になる。体温がいっきょに下がったのがわかる。お湯を飲まないといけない。ほら、またこうして、ああしろこうしろと・・・
 もしかしたらわたしは神経質なのかもしれない。ここに書かれた文章を読み返すと、まるでおばあさんが不平を言っているようだ。もし本当にわたしがおばあさんなら、こんなふうに不満を抱いたりする元気があるのか、わからないけれど。
 今日やることを考えて、うんざりした。うんざりすることに時間を使いたくない。わたしはいつも、朝は悲観的で疲れているのだが、夜はポジティブで何をやっても楽しい。それで、日中は、よく死にたいと思っている。面倒くさがりだから、面倒なことがたくさん出てくると、面倒くさくなって、死にたくなる。と言っているけど、死なない。面倒くさい、というかわりに、死にたいと言っているだけだ。死ぬというのは、わたしにとって、「もう何もしなくていい」を意味する。だから、面倒くさくて何もしたくないとき、それは日中はずっとそうなんだけど、気楽に死にたいと言ってしまうのだ。それにしても、やりたくないと思うのは、当たり前だけど、やらなければならないことに決まっている。やれやれ。
 すぐに脅迫心を感じてしまう自分が疲れやすいのは、当たり前のようだ。しかし脅迫心がなかったら、素直なやりたいという気持ちだけで、1日を過ごすことができるのだろうか。脅迫心であるのか、親切心であるのか、わたしの理性はいろいろとメッセージを出して、ああしろこうしろとわたしをコントロールしようとする。コントロールされたくないわたしはいつまでも布団の中から出てこない。
 いつも、もう寝るぞという時間になって、自由を感じる。ああ、ようやくわたしの1日が始まるという感じ。それは、「やらなければならないこと」から解放された時間なのだ。夜はなぜ自由でいられるのだろう?
 ああ、夜は、死者の世界だからだ。もう外界とつながりをもたなくていい。面倒なことは全て日中に終わってしまった。あとは純粋な時間を楽しむことができる。そんな贅沢を味わうことができるのは、深夜0時から長くても3時間ほど。
 本当の死人だったら、日中からいきなり、死者の世界を生きているのだから、朝から楽しい気持ちで過ごすのかもしれない。わたしは死人になりたい、と言ったテーバイの巫女の気持ちがわかる。

文章練習の極意

 わたしは気づいたんだけど、文章練習には二つの目的がある。
 一つは、文章を書くことは楽しいってことを感じる。
 もう一つは、何をどう書いてもいいんだってことを思い出す。
 だから、文章練習は大事なのだ。
 わたしは文章を書いているとき、楽しい。特に、ストーリーなんかなくて、ただ考えをつらつら書いてるようなときがいちばん楽しい。今みたいなとき。考えが過去のどこか旅した町の風景やなんかにグーッと寄っていって、その色彩を味わっているようなときが楽しい。それをどうやったら、白い紙の上に、言葉だけで滲み出させることができるだろうか。ポルトガルの路地で売られていた揚げ菓子の匂いを、どうやって染み出すのだろうか。イタリアの夕陽が海に落ちてしまって、岸辺に集まった人たちがぞろぞろと帰っていく姿を、どうやって描き出すのだろうか。そういうことを考えているときわたしは想像力の旅人となって書くことからも自由になっている。
 わたしは遠くに行きたい。自分の心の中を遠くまで旅したい。
 それと、作家になることとは、じつはあまり相性がよくないのかもしれない。ストーリーやオチがきちんとある文章は、わたしには書きたいと思えない。たぶん、わたしの書くものは商品としての小説にはならないだろう。
 今日、愕然とした。わたしは、もう会社員としての仕事を辞めて、作家としてやっていきたい、なんて、かねがね思っていたけれど、そもそも、会社員を辞められるほどに作家であるわけではない。会社員を辞めたら、ただの無職とか、主婦とかになるだけであって、作家になれるかどうかは、またゼロからやり直さなければならないのだ。
 作家というのはまた一つの職業であって、叩き上げで修行を積まなければいけないのだ。
 うんざりした。そうだとしたら、この世界には魔法なんてないし、面白くも何ともない。
 最初に掲げた、文章練習の意義と反対するじゃないか。わたしは書くことは楽しいということに忠実でありたいし、何をこう書かなければいけないと口出しする人たちとは友達になりたくない。それが、わたしが職業作家に決してなれないということを意味しているのだとしたら、とても残念である。
 今日、かねてから書きたいと思っていた小説の出だしを書いてみた。困ったことに、その話にはストーリーがない。わたしには説明したいことや、考えたいことはあるんだけれど、それが時間の流れに乗ってプロットを通じて展開していくということになっていない。これは小説としては致命的である。
 しかし、文章としては、生きている。
 それは不思議な感覚だ。こうして書いている文章は、登場人物はおらず、ストーリーもなく、小説としては、致命的である。しかし、生きている。生きもののように、這っていく。自分の書く文章は、いつも、腕を使って砂浜を這っていく人魚を連想させる。人魚には、足がない。

朝寝坊がデフォルト

いつ起きても朝がつらい。朝というのは、普通、午前7時くらいから9時くらいのことを指すのかもしれないが、わたしはいつも昼の12時くらいに起きるので、この時間が朝である。朝7時から9時は、なぜかわからないけれどいつも体がバキバキで、目がほとんど見えないので、つらすぎて起きられない。

わたしの仮説では、睡眠中に、体のパーツを全部バラバラにしてオーバーホール・リフレッシュをするのだが、朝の7時から9時ではまだそのメンテナンスが終わっていないのだ。色々と断線しているので、手がしびれていたり、目がチカチカしょぼしょぼして、とても使いものにならない。だいたい、10時くらいまで寝ることで、体がひとつの機械としてきちんと動くようになる。それでもまだ眠いので、12時まで寝ると、シュールな夢をひとつかふたつ見ることができ、ああ、今日もよく寝た、となる。

このサイクルは小さい頃からほとんど変わらない。そのため、平日学校に行かなければならないときは地獄だった。大学に入ってからは、基本的に、午前中の授業を取らないようにした。

今思うと、どうやって朝から夜までのフルタイムの仕事をしていたのか謎である。なんという非人間的なチャレンジをしていたのだろう。

こういう生活サイクルで生きていきたいので、作家になりたいと思っていた。昼過ぎまで寝ているというと、ダメなやつだと思われがちだけど、水野敬也さんによると、クリント・イーストウッドもよく寝ていた。夫によると、アインシュタインも1日15時間も寝ていたとか。わたしも完全にそちら側の人間だ。

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

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とはいえ、夜眠れないのはそれはそれで悩みだ。ベッドに入っても、あれこれと頭を働かせてしまうし、家族との時間がずれていく。だんだん、昼の12時に起きても「よく寝た」とは思えず、「ああ、まだ神経がつながっていない」と感じる。

夜12時に寝て、朝7時に気持ちよく起きられるような人間だったら、社会への接し方とか、快いと思うものとか、幸福観とか、何かが根本的に違うような気がする。

コーヒーが欠かせなくなってしまった。いま、午後2時半だけど、朝のコーヒーを飲みながら、書いている。わたしが朝早起きする日が来たら、いや復職したら遠からずそうなるんだけど、今日のことを懐かしく思い出してほしい。

エスプレッソ、ひだまり、ゴーレム。

いつでも、消して、また新しく始めるというのを繰り返してきた。わたしたちの世代の特徴かもしれない。リセット・リスタート。リセット・リスタート。そうすれば、自分の望むもの、綺麗なものが手に入ると思っていたから。

綺麗に黒板を消して、またゼロから始めればいい。それもまた美しい。

しかし、わたしは自分の書く文章に対してコンシャスすぎる。

とてもじゃないけれど、ナタリーのいうような「第一の思考」をそのまま表現することができそうにない。その生々しい手ざわり。もし、わたしが自分だけのノートを広げたら、何かそういうものが書けるのかなぁ。

いいものを書こうと思う必要すらないんだった。ただ、わたしは文章を書いているのが好きだった。それは、生きるのが好きであるのとほぼ同義だ。そんな自分を尊重してあげればいいということなんだ。

このトピックにとどまり続ける必要もない。しかし全てに対してわたしは言い訳がましい。ブログというものにこだわり・わだかまりがあるんだ。理路整然と書かなければいけないんだという。つまりこれこそ、ナタリーのいう「エゴ」に他ならない。

検閲されているのだ……常に、すでに。

今回、また文章練習に戻ろうと思ったのは、図書館でたくさんの本を借りてきて、それを手書きで写したら楽しいだろうと思ったんだけど、ノートがあっという間に終わってしまいそうだから、パソコンでやったらどうかなと思ったんだった。

そしたら、タイピングになれることにもなる。いつか小説を書くなら、きっとタイピングで書くに違いないと思ったから。

別にナタリーの言う通りの方法でやる必要だってないんだった。どこにも、絶対的なルールなんてないんだから。

だから、好きな作家の好きな箇所を書いて、そこから繋がるような感じで、自分のことをつらつら好きなように書いてもいいんだった。それがわたしのしたいことであったような気がする。うん。。。。

昔は、パソコンでものを書くのが好きだった。でもそれもいつの間にか、やらなくなった。仕事や勉強でパソコンを使って、目が疲れるからできるだけ紙のノートに書くようにしたのが理由の一つ。もう一つは、わたしの絵と組み合わせたかったから。それから、何よりの理由は、ノートを何十冊も書いて、結局作家になれなかったから、もう書くこと自体が嫌になってしまったんだ。わたしの手書きの文字はなかなか味がある。だから、手書きで書くと、パソコンで書くよりずっと微妙なニュアンスを表現できるような気がした。紙のノートは、わたしのため。パソコンのノートも、わたしのため。誰にも読まれることのないあの大量の文字は、どこへ漂うのだろう。川から海に押し出された泥のように、わたしの中に、深く深く、堆積しているのかな。

絵も、文章を書くのも、本を読むのも好きだ。そういえば、今日はいつもよりすてきな1日だった。いつものように昼過ぎに起きて、でもその後が違った。すぐさま着替えるとカフェにエスプレッソを飲みに出かけて、滅多に浴びることのない日光の下をゆっくり歩いた。太陽とすっかり仲良くなった気分で、家に着いたら窓のカーテンを開けた。カーテンも、人の目が気になって滅多に開かない。今日は、窓際に座って、午後の残り日にうずくまって、本を読んでいた。なつかしかった。小学生の頃、夕陽の当たる階段に座って、本を読むのが好きだった。

その時だった。図書館に行こうというひらめきが、天使のように訪れたのは。図書館では、大好きだった作家と、これから好きになれそうな作家の本を借りた。ブローティガンの本が、まさか棚に置かれているなんて。ブラッドベリもたくさんあった。ヴァージニア・ウルフ。これを全部借りて行って、自分のノートに好きな箇所を書き写したら、絶対、自分の創作意欲が刺激されるに違いない!ってワクワクしたんだった。図書館は、なんて幸せな場所なんだろう。本屋では決して見つからない本が、楽しそうに肩を並べている。楽しそう?昔はそんな風に思わなかった。誰からも手に取ってもらえないのね・・・なんて同情したりして。わたしの選ぶ本は、通好みだなんて思っていた。だからどうってこともないんだけど。

わたしの読んできた大量の本も、わたしの中に、泥のように堆積しているのかな。その泥をこねこねして、ゴーレムにして動かしたいというのが、わたしの長年の夢だった。わたしの言うことを聞く家来。わたしを肩に乗せてくれる巨人。「歩き出せ、ゴーレム」という題名の詩を書こうとしたこともある。わたしはまだあきらめていない。やっぱり、こうして、書くことが好き。それが、誰に読まれなくても、認められなくても、やっぱり、こうして、書くことが好き。

こうして、ワクワクしながら、自分の言葉に耳を傾けているの。

あらためて文章修行♡ 「現在の瞬間」を生きる。

文章修行はあなたの人生をまるごと受け入れてくれる。そこでは論理的な形式は何ひとつ要求されない。(…)文章修行には決まった道はなく、現瞬間に存在しているあなたのすべてと関わっている。それは、非論理的な文章でも支離滅裂な文章でも何でも受け入れてくれる愛情あふれる腕だ。それは、自然のままの森ーー刈り込んで綺麗な庭園にする前に、すなわち素晴らしい作品を書く前に、エネルギーを蓄えておくための森だ。だから、この修行に終わりはない。

いますぐ机に向かうこと。現在の瞬間に心を預け、そして心に浮かんでくるものを何でもいいから書いていこう。それは、「現在の瞬間」という言葉から始まるかもしれないし、七年前の結婚式のとき身に飾ったクチナシの花についての文章で終わるかもしれない。それでも結構。文章をコントロールしようとしてはいけない。何が浮かんでこようと現在にとどまり、手を動かしつづけよう。

魂の文章術―書くことから始めよう

魂の文章術―書くことから始めよう

 

だから、いつでもこの白紙のページに戻ってこようと思う。

ファックアップジャパン!

対アード、タイアード、タイアード、タイアード。誤字の変換についてもそのまま残したほうがいいのだろうか。すでに飽きて疲れてしまった。そうこうするより大学院のレポートを読まないと、課題を出さないといけないのだ。何事にもプライオリティーというものがあってだな、なかなか文章を書くのはいつもゴテゴテになってきたのだ。だって即効性がないから。いったいどうすればうまくいくかも明確でないから。効率的に生きようとすることと真逆のように思える。だからビジネスと小説家志望って相入れないのかもしれない。でも実際は小説をバンバン書いてめちゃくちゃ稼いでる森博嗣みたいな人がいるじゃん。わたしにはそんな芸当できそうもないとやる前からわかっている。そもそもそういうの書きタイんじゃないし、みたいな、それって負け惜しみかなあ。

お風呂がわいたので息子を入れてこないといけないようだ。ねむい。というかレポート読まないと。課題をやらないと。で、そういうことばっかり書いて字数を稼ごうという作戦。でもそういうことしてたらいつまでたっても小説なんてできないんじゃないかと思うんだけど。小説になりそうなものを狙って書くのもなんかコントロールしてるっぽいからあんまり気が進まないんだけどね、ほら、コントロールを離れて自由な発想で波に乗るのが大事、みたいなね。

題名のファックアップジャパンは、ずっとその題名で、日本がきらいだって話を書こうと思ってたんだけど、結局、この内容はそのときに考えていたこととは違っていて、日本とは関係ないんだよ。というか日本語で書いてるから、ファックアップではあるけどソリッドベースであるっちゅー話。