みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

「魂の文章術」にならって

毎日5分間、とにかくどーでもいいような文章でいーから、つらつら書くのだそうだ。そうすることで、自分の文章に対する批判や推敲を取り去って、そうした理性が介入する前の「第一の流れ」であるところの文章を取り出す。

最初、わたしのevernoteに書いていたのだけど、そちらに文章がたまっていくかわりに、ブログのほうは何の進展もない。

ブログはまじめに書こうと思っていたから、「そんな5分間の走り書きじゃいけない」なんて思って、勝手に自分からハードルを上げていた。

読み返してもいけない。推敲してもいけない。そんな内容を誰かの目にさらすのはよくないことであるように思った。でも、でも、でも、こういうこっそりした努力を続けるには、ブログを活用していけないわけでもない。

なぜって、書くのは、結局のところ、誰かに読んでもらいたいからなのだ。

5分間の走り書きだって、読まれてもいいのだ。

それが今後のわたしの方針になる。もう、テーマもクオリティも気にしない。推敲しない。読み返さない。書いたものを消さない。これまでたくさん気にして、推敲して、読み返して、たくさん削除してきた。わたしはまじめで、よい文章家であろうとした。でも結局、それがなんの果実も結ばなかったのは、わたしが作家になっていないという点から証明されている。

衝撃的だ。わたしは、小学生のころから、自分は作家になるだろうと思っていたのに、まだ実現していない。30年が経過したのに、アホである。

どうも、これまでのやり方(つまり、テーマやクオリティに責任をもとうとし、推敲し、読み返し、書いたものを消すようなやり方)は、うまくない。間違っている。的外れである。だから、逆のことをやってみよう。

フリースタイル。それで、読まれてもいい。書いてもいい。

わたしはこういう自動筆記が好きだ。そして、自分の書いた自動筆記を読み返すのがいつも大好きだ。こんなに自分の書いたものが好きなのだから、そういう気持ちを尊重したい。

あなたにも好きになってもらいたい。

今日わたしは、本当は以下のようなことを書くつもりだった。

ぶーーーじーーーぶううじいいい。ちょびんちょびん。びってんしゃっとちょぼっちょ!しゃんどらちょびっざむらい!という名の侍がいて、江戸幕府末期に、川に糸を垂れていた。

ぶーじー、ぶううじいいは、フランス語で、ろうそくという意味である。

ちょびんは、わからないが、チョ瓶である。たぶん貯瓶であり、何かを貯めておくものである。

びってんしゃっとは、ドイツ語のような響きがある。しかし、弁財天、喜捨、吐瀉を連想させる。

ちょぼっちょは、にわとりによく似た鳥であるところの、チャボであろう。

しゃんどらは、インドの何か高貴なものの味わいがある。さもなくば、さわやかな音色の銅鑼。

ちょびっは貯瓶の詰まったもので、貯瓶侍は、何かを貯めている侍である。

貯瓶の中に釣れた魚を集めるのだ。

ぶーーーじーーーぶううじいいい。