みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

今日は小説をおやすみします

 いつも夜中の12時になると、「ああ、今日が終わる。だけど、その前にやることをやらなくちゃ」と思う。

 それから大急ぎで小説を書くんだけど、なぜかもう眠いし、なんとなく気乗りしないから、今日は書かないことにしようと思う。

 書かないこともまた勇気である、とかなんとか言って。

 勇気だというのは嘘である。単なる惰性である。いつも、最初の3日くらいは、筆が進むんだけど、そのあと、なんだかいやになってしまう。思い返してみると、それはそれでパターン化されているような気がする。息切れのパターン。あるいはネタ切れのパターン。

 そのあと、ぱったりとやめてしまって、もう小説に戻ってこないのがこれまでのパターンだったので、今日はてきとうにお茶を濁して、明日は気を取り直してまた何か書くことにする。

 一方、書けないときに、無理して徹夜して書いて、その翌日から燃え尽きてぱったりとやめてしまうのも、これまで何回か経験している。無理して書くのは、恐怖に駆られているからである。1日でも抜かしたら、もう自信をなくしてしまう。しかし無理して書いてみると、自信は失われないかわりに、書くことが楽しいという気持ちが消えてしまう。じつはそっちのほうが致命的だ。

 書けない日は、かわりにこうした雑文を書いておく、というのは、パターン逃れのためのはじめての試みだ。やっぱり、何にも書かないのは不安なのだ。何が不安なのかというと、このまま再び書き始めるのが億劫になって、そのまま書けなくなることが不安なので、できるだけノートから離れないようにしておく作戦デアル。

 そういえば、今日、大切なことに思い至った。

 自分の楽しいこと、好きなことを見極めるのが大事である。

 当たり前か(笑)。そして見極めたら、そのとおりに、自分のすることを選ばなければならない。楽しくないことをやめること、好きでないことを拒否することは、発電所1つ分くらいのエネルギーを必要とする。しかし、楽しいこと、好きなことをやって生きる時間を確保するには、楽しくないこと、好きでないことにかかずらっている暇はないのだ。

 わたしは文章を書くのが好きだ。文章の中身は究極のところ何でもよくて、こうやってパタパタタイピングしているのが、ピアノを弾いているみたいに楽しいのだ(わたしはピアノを弾けないけど)。

 だから、もうそれでいいということにしたい。

 洗ってないお皿がたくさんあるなぁ。出さなきゃいけない手紙も、ぐしゃぐしゃになっている。どちらもそのままにしておこう。

 しかし、こういう雑文も、わたしの半生でノートに腐るほど書いてきたなぁ。それでも、小説が書けないパターンから抜けられなかった。今度こそは「えいっ」とその境界を超えたい。