みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

どんな記事を書こうかな?

ブログ2日目だよー。

 

ニーチェが、『ツァラトゥストラかく語りき』の中で

「人間は深淵にかけられた綱である」と言っていたのを

思い出していた。

(正確ではないかもしれない)

 

ああ、「わたしは2極に振れている」と思ったから。

 

子供が生まれて産休に入ってのち、

時間の流れがゆっくりになった。

それまでの効率主義から、「非生産的」な生き方。

 

朝はだらだら12時(昼だね)まで寝てて

約束はドタキャンしてまうし、部屋は片付かないし、

だからこそ、ブログを開設することができた。

 

しかしブログを書こうとする今でも、

「生産的」と「非生産的」の間を、

「効率性」と「非効率」の間を、

「現実的」と「夢見がち」の間を振れている。

 

そして、 

「人に共感してもらえるような、誰かに向けたわかりやすい記事」と

「自分の感性をひとりよがりに楽しむ、内面に閉じこもった記事」の

どちらを書くべきかを迷っている。

 

 

ニーチェの言葉に出てくる綱は、おそらく

「凡庸な人間から、超人へ至る1本の綱」という意味で、

向かっていく進路は決まっていたのだろうが、

 

わたしの中にある綱は、どちらの極にも進むこともできる。

どちらに進むのが望ましいのかわからない。

 

ひとつわかっているのは、

この綱を渡りきらないほうがいい、ということ。

(そうしたら、やりすぎになる)

しかし、渡るのをやめたら、ブログがかけないのである。

(深淵)

 

「書かれたい」と言って、わたしの内面に、

ポコポコわいてくるアイディアは、

さまざまなトーン、さまざまな価値観に基づき

すでに多声的(ポリフォニック)で、

いわば、綱のあっちの端と、こっちの端から響いており、

ブログで統一された人格を維持するのが困難である。

 

この記事は、まだ読者がすくないこともあり、

わたしの内面の声を楽しんでいる方だ。

 

わたしの頭の中に、無数の引っかき傷があるようだ。

 

どうも、それが綱のように渡れるようになっている。

 

ニーチェは、綱は橋にすぎないから早く渡れという。

 

でも、渡っていくところに面白みがあるじゃないか・・・