みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

西野亮廣『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』

 

1日24時間のところを、1日30時間、1日40時間……と増やすには他人の身体をお借りし、他人の時間を奪うしかない。そこで、「どういうアクションを起こせば、他人が自分に時間を使いたくなるか?」と考える。(p.161)

https://myrte.hatenablog.com/entry/2018/07/21/080334

 

読んだ本を手放すにあたり、備忘録として、注目した箇所を投稿してみることにした。

 

革命のファンファーレ 現代のお金と広告

革命のファンファーレ 現代のお金と広告

 

 

ファンファーレという名にふさわしく煽ってる。

「好きなことをして生きていけるほど、世の中は甘くない」と言われても、好きでもない仕事は消え、好きなことしか残らなくなってきている。

 ここからは、“好きなことを仕事化するしか道が残されていない”時代だ。 

(中略)

 既得権益を守りはじめた人間から終わりが始まる。

 頑張れば報われる時代は終わり、変化しなければ生き残れない時代に、僕らは立ち会っている。(p.10)

 

けれど、自分に即してみると、わたしの専門分野でどんな変化が起きて/もたらされているのか、わたしの仕事にどのような影響が及ぶのか、具体的には想像できない。

つまり、わたしは既得権益を守っている側だということだ。

一方で、自分の好きなものが、どんなふうに仕事化されるのかの見通しも立ってない。

仕事化したくない、受けを取りに行きたくない、とも、どこかで思っている。

 

そこには無料公開することで実力が可視化されて売り上げが上がる人間と、無料公開することで実力不足が露呈して売り上げが落ちてしまう人間の2種類が存在する。

(中略)

無料化は、つまるところ「実力の可視化」で、それにより、これまで以上に格差が生まれる。 (pp.135-137)

 

「仕事化したくない」と書いたけれど、上記の無料公開のくだりを読むと、そもそも「仕事化」を考える必要はなく、

「単に(無料で)好きなことをやっていればいい」とも読める。

なぜなら、無料公開しているうちに実力が可視化されて売り上げにつながる人間というのが実際にいるわけだから。

仕事になるかどうかが決まるのは、本人の決意ではなく、売り上げが上がるかどうか=つまり受け手がお金を払うかどうか。

「これには誰かが金を出す」と思った「儲けるのが好きな人」が、発掘してくれる。

 

1日24時間のところを、1日30時間、1日40時間……と増やすには他人の身体をお借りし、他人の時間を奪うしかない。

そこで、「どういうアクションを起こせば、他人が自分に時間を使いたくなるか?」と考える。(p.161)

 

「生身の肉体のコストパフォーマンス」をシビアに考えてなかったにゃー。

確かに、ある行動を選択するということは「その行動に時間を奪われる」ことを決めてるということ。

今のわたしは湯水のように時間を使って旦那さん&子供と過ごしてる :)

 

クラウドファンディングは、資金調達のツールではなく、共犯者作りのツールである。(p.174)

 

にゃるほど。

 

これに限った話ではないけれど、基本的に、「まず考えてしまう」という行為は総じておこがましい。

そこには「考えれば答えが出る」という前提がある。自分の能力を高く見積もりすぎだ。(p.282) 

 

全然ちがう文脈から共感。わたしはいつも考えすぎ。

 

帯にはそうそうたるメンバーが推薦の言葉を書いてる(ホリエモンとか)。

こういう人たちがいまのメディアを引っ張っていて、「ネット言説空間」を作り上げてるんだなと。まぶしいわー。超暇になったらツイッターもはじめようかな。

 

机が片付かない

今日、ブログを書こうとして、まっさきに思いついたのがこの言葉。

「机が片付かない。」

パソコンの向こうに広がる景色が騒がしい、、、

 

最近、ミニマルライフをテーマにした筆子さんのブログ

minimalist-fudeko.com

を読んでいて、少しずつ服やバッグをリサイクルに出したり、

冷蔵庫を掃除したりしているところ。

 

もうすぐ、今住んでいるパリを離れなければいけないので、

その準備も兼ねている。

けどなかなか進まない。

 

・・・と書くのがいやになったので、とりあえず机の上を片付けてみた。

 

ふむ。

 

本と書類の山が3つあったのが、1つに減った。

 

これだけでもずいぶん、充実感がある。

書くと自分が客観視されるから、「このままじゃいやだ」と思って

現状を変えるようなエネルギーが出てくるのかもしれない。

 

紙の日記に書いてもこれほどの効果はなかったから

筆子さんもどこかで書いていたけど、ブログの特質なのかも。

 

机に出しっぱなしにしてあったもののうち、

「切手」を使って、妹への誕生日のカードを準備した。

フランスから日本への郵送物は、たびたび行方不明になるけれど

無事に届くといいな。

 

あとは、ささっと読んで捨てる本が2冊机にのっている。

可愛い写真があったら切り取る雑誌が3冊。

 

簡単にブログで言及したら、備忘録になっていいかしら?

これは、明日以降にしよう。

 

どんな記事を書こうかな?

ブログ2日目だよー。

 

ニーチェが、『ツァラトゥストラかく語りき』の中で

「人間は深淵にかけられた綱である」と言っていたのを

思い出していた。

(正確ではないかもしれない)

 

ああ、「わたしは2極に振れている」と思ったから。

 

子供が生まれて産休に入ってのち、

時間の流れがゆっくりになった。

それまでの効率主義から、「非生産的」な生き方。

 

朝はだらだら12時(昼だね)まで寝てて

約束はドタキャンしてまうし、部屋は片付かないし、

だからこそ、ブログを開設することができた。

 

しかしブログを書こうとする今でも、

「生産的」と「非生産的」の間を、

「効率性」と「非効率」の間を、

「現実的」と「夢見がち」の間を振れている。

 

そして、 

「人に共感してもらえるような、誰かに向けたわかりやすい記事」と

「自分の感性をひとりよがりに楽しむ、内面に閉じこもった記事」の

どちらを書くべきかを迷っている。

 

 

ニーチェの言葉に出てくる綱は、おそらく

「凡庸な人間から、超人へ至る1本の綱」という意味で、

向かっていく進路は決まっていたのだろうが、

 

わたしの中にある綱は、どちらの極にも進むこともできる。

どちらに進むのが望ましいのかわからない。

 

ひとつわかっているのは、

この綱を渡りきらないほうがいい、ということ。

(そうしたら、やりすぎになる)

しかし、渡るのをやめたら、ブログがかけないのである。

(深淵)

 

「書かれたい」と言って、わたしの内面に、

ポコポコわいてくるアイディアは、

さまざまなトーン、さまざまな価値観に基づき

すでに多声的(ポリフォニック)で、

いわば、綱のあっちの端と、こっちの端から響いており、

ブログで統一された人格を維持するのが困難である。

 

この記事は、まだ読者がすくないこともあり、

わたしの内面の声を楽しんでいる方だ。

 

わたしの頭の中に、無数の引っかき傷があるようだ。

 

どうも、それが綱のように渡れるようになっている。

 

ニーチェは、綱は橋にすぎないから早く渡れという。

 

でも、渡っていくところに面白みがあるじゃないか・・・

 

今日からさらさら書く

ふにゃふにゃ・・・

 

今日からブログを始めることにしました。

 

本当につづくのかなぁ。

 

別のブログもやったけど、2回挫折しています。

本当に思ったようなことは書けません。

 

ノートも、いままで数十冊、日記を書いてきたけれど

いまだに、15年前と同じようなところをぐるぐる。

 

あんまり、気合を入れないで、細々したことを、

簡単に、さらさらと、脱力して、

一貫性も、読み応えもなく、

完成度低く、こだわらず、過度に書き直さず、

 

読者に媚びることも、期待することもせず、

自分には正直でいるような、

なんて、そんな期待もせず、ただ自動記述するような、

そういうものをわたしは書きたい。