みるとみえる

世界文学と「わたしの言葉」をこよなく愛する女の子の創作ノート

短編小説その3

 ーーごめん、やっぱりうちには泊められない。でも、もしほかにどこにも行くあてがなかったら、また連絡して。
 もしかしたら冷たいかしら?と迷ったけれど、こんな返事を送った。半年前に上海に戻ったはずのシェンから、「いまパリにいる、泊めてほしい」とメッセージが届いたのだ。
 シェンにはパリに住むポルトガル人の恋人がいて、遠距離恋愛だった。パリに滞在する間は彼のところに泊まるはずだから、たぶん彼と喧嘩でもしたのだろう。シェンは床でもかまわないと書いてきたけど、わたしたちのアパートはワンルームで、夫婦のダブルベッドに向かい合ったソファ(あるいは床)に、失意の女性を泊めるのは名案だとは思えなかった。
 それから1週間ほどたって、またメッセージがきた。やっぱり、話したいことがあるという。指定されたカフェに向かうまでの道に、大きな果物屋さんがあって、食べごろのチェリーが山積みになっていた。あざやかなボルドーの実が、店のランプを照り返している。約束の時間にちょっと遅れていたけれど、買っていくことにした。
 軒先に山積みのチェリーは、パリで夏によく見かける。目に入るたびに、買おうかな?と頭の中で考える。パリの中ではまったく違う地区なのに、似たような果物屋が、似たようなチェリーを売っている。1年前に、シェンと通り過ぎた果物屋もそうだった。そのときは買わなかったけれどーー
 * * *
 わたしたちは彼氏の部屋に向かっていた。「一緒に来てもいいけど、秘密にしておいて」とシェンは言った。彼が出張で留守にしているあいだ、飼い猫のキキにえさをあげにいくよう頼まれていたのだった。わたしたちはどこかのカフェでおしゃべりをして、それでも話し足りずに、夕食を食べにいこうとしていた。好奇心は猫をも殺す。わたしまでキキのえさやりに付いてきてしまった。
 わたしは、彼氏のロドリゴのほうをシェンよりも先に知っていた。小柄で、わたしの勝手なポルトガル人のイメージに合わず、色白だった。それでも陽気さは抜群で、しょっちゅう冗談を言ってはゲラゲラと笑っている。しかしその笑い方がどこか空回りしていて、なんとなく違和感があった。誰よりも先にロドリゴが笑いはじめ、まるで「ここは笑うところだ」と周りに教えているような感じなのだ。それでも、いつも人に囲まれていて、「ロドリゴを知らないやつはいない」なんて言われていた。
 きっとアパートも大胆に散らかっているんだろうと予想していたが、シェンが招き入れた部屋には、ほとんど生活感がなかった。グレーと黒を基調にした家具は大家さんのセレクトだろう。アコースティックギターが1本壁に立てかけてあったほかに、ロドリゴの個性を感じさせるものは何もなかった。毛の長い黒猫が玄関まで迎えに来て、シェンのスキニージーンズに体を擦りつける。
 猫にえさをやったあとで、「水でも飲む?」と、シェンはガラスのコップに水道水を入れてくれた。チェリーを持ってこなくてよかった、と思う。ここは、出張中の人の部屋というより、すでに入居者が引っ越してしまった部屋のように感じられる。シェンはキキを抱き上げて撫でているこの子は本当に頭がいいの、と。甘えもせず、させるがままにしているキキのほうが大人に見える。
 ロドリゴは、キキと一緒にオランダから引っ越してきたのだそうだ。「パリの仕事の前は何をしていたのか?」という、初対面で、ごく一般的、社交的に持ち出した質問に対する彼の答えは、しごくプライベートで詳細なものだった。
 ーーオランダ人だった前の妻にせがまれてハーグで仕事を見つけたんだけど、徒歩で回れる小さい町に窒息しそうになって(パリとは違うんだ、想像するのも難しいくらいだよ)、精神を病んできた相手との生活にもうんざりして(刃物を持ち出されたこともあるんだぜ)、仕事と家庭の両方をやめたんだ。
 キキはその結婚生活の前にロドリゴに拾われたらしく、前妻はキキとしっくりいかなかったらしい。シェンはキキに好かれている、というのが、ロドリゴからシェンへの愛情にいくらか寄与しているようだった。(つづく)